天武・持統朝

天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で、争いが起こった。672年(弘文元)壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。 672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。 681年(天武10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年(朱鳥元年)に天武は没する。8年後の689年(持統3年)に諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定される。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。 人民支配のための本格的な戸籍づくりも開始される。690年(持統4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。692年(持統6年)には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。 694年(持統8年)には藤原京に都を定めた。唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5年)に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立とみる。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われた。 710年(和銅3年)に平城京へ遷都した。

天武天皇

天武天皇(てんむてんのう、舒明天皇3年(631年)? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、『皇統譜』によると第40代に数えられる天皇(在位:天武天皇2年2月27日(673年3月20日) - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。

弘文天皇

弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年)- 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)又は 伊賀(いが)。

壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子大友皇子(おおとものみこ、1870年(明治3年)弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。

飛鳥浄御原宮

飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地があるが、近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられようになっている。 『日本書紀』天武天皇元年是歳の条に、「宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」とある。また、朱鳥元年七月の条に「元を改めて朱鳥(あかみどり)元年という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)謂ふ。」とある。『紀』を信じれば、「飛鳥浄御原宮」という宮号は天武十五年(朱鳥元、686)に名づけられたと謂うことになり、672年12月〜686年7月までは、この宮の名がなかったことになる。 飛鳥の諸宮の名は、豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、後飛鳥岡本宮などで分かるように地名をつけている。異なるのが飛鳥浄御原宮である。「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不詳を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという。 大化前代の宮(皇居)は、多く飛鳥地方の中で天皇の代ごとに移っていた。大化の時に孝徳天皇は難波(なにわ)に長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)を造り、天智天皇は近江大津宮に移った。

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